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 彼が注文するのは決まってダージリンの紅茶だ。喫茶店の窓際、一番奥の席にいつも座る。さっきから開いた文庫本に目を落としていた。傍から見れば読書を楽しんでいるように映る。
 だけど、この喫茶店で働いてから二年経つ僕の目は誤魔化せない。
 彼があの席に座るのは、この喫茶店の店内が隅々まで見渡せるのをちゃんと把握しているからなのだろう。本を読みながらも、一日に何度もこっちを見てくる。
「また彼がこっちを見ているよ、よほど梓を気に入ってるんだな」
 この店のマスターであり僕の雇い主である西坂響は小声で告げ、にこにことしていた。
「さあ、どうでしょう」
「そんなことを言って、好みに煩い久住梓が気に入った相手なんじゃないのか」
 僕は声を喉に詰まらせた。気のない振りをしていたのに、西坂さんにはすっかり見抜かれていたようだ。
「芳川さんの恋愛対象って男だと思います?」
「たぶんね」
「マスター、コーヒー一杯お願い」とカウンターからお客さんの声がする。「はい」と西坂さんは落ち着きのある穏やかさで返事をしてから、隣にいる僕にこそっと囁いた。
「自分から動くのも大事だよ」
 ぱちりとウインクをされてしまった。
 そうかもしれない。ただ待っているだけではなにも変わらないのなら、自分から動いたっていい。
 窓際の奥の席に視線をやると、タイミング良く芳川さんと目が合った。彼は慌てて目を逸らし、顔を真っ赤にして文庫本へと俯けた。ずれた眼鏡のフレームに手をかけ、直している。
 見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの照れっぷりだ。
 芳川智樹。僕よりも十二歳上の三十二だ。店の常連で何度か話しかけたことがあるから、彼の情報は少しばかり持っている。大手企業の総務部に勤めるサラリーマンで、この喫茶店の近くに住んでいるらしい。
 芳川さんは決まって土曜日になると喫茶店にやってきて、午後からの半日をあの席で過ごす。
 ひとりで来て本を読んでいるお客さんなら他にもいたし、別に特別気にとめる存在でもなかった。

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